息を引き取るその瞬間まで美しく
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インドでヨーガを学んでいたとき、ヨーガに対する私の価値観を変えた言葉があります。
「ヨーガは死の準備」
私のまわりのインド人は、皆ヨーガのことをそうとらえてヨーガに励んでいました。
人間は誰でも年老いて、そして、体が死にます。
その当たり前のことに争わず、自然の摂理をきちんと学んで理解して、それに合わせてヨーガで心と体を整えます。
衰えてからもとに戻そうとするのでは遅すぎるからです。
集中、意識、記憶、思考。
これらの機能は、疲れてきたらヨーガで最適化します。そのままにしておくと、年齢に関係なくお若い方でも老朽化します。
私は中学生の頃から自分の死の瞬間をイメージしていました。その瞬間を一番美しいものにしようと決めたのは、13歳のときです。
最後の瞬間が惨めな迎え方をしたとしても、たとえば、予期せぬ事故とか誰かに命を奪われたりとか、、それで恨んだり憎んだりして鬼の形相で死ぬのではなく、美しい花は美しいと思える心で死んでいける人になろうと思いました。
そのためには、怒りを優しさに切り替えることができなければなりません。
そんなこと、どうやって実現できるだろう?
誰かに殴られたり、意地悪されたら、その人を恨みます。それが、死の瞬間だったら恨んだまま逝かなければなりません。
どうやって激怒した心を優しい心に切り替えることができるの・・・?13歳の私はそう思ったのです。
大人になった私は、その方法をヨーガに見つけました。
ヨーガでは「心と体は道具」と認識されています。
体が病気で死んでも、私のこの意識は病気になりません。心が怒っても、私のこの意識は怒りとは別です。
このように言葉で言うことは容易いのですが、実際に体が病めば落ち込むし、人間関係で怒ることがあれば感情が乱れ自分の生活も同じようになります。
だから、練習するのです。意識を育て、意識を高めていけば、心と体は道具であると認識できるようになります。ヨーガはそのためのレッスンです。
この体がどうあろうと、私の意識は美しいまま、この概念を自分の生き方、価値観に実現できます。
生きているうちに磨き上げた自分の意識を、死ぬ瞬間まで保ち、意識的に死んでいくことをヨーガは目指しています。
意識が朦朧として周りのことも友達のことも、自分のこともわからないままこの世を去っていくことは悲しすぎます。人は、死ぬその瞬間が一番人間であることを証明できる時だからです。
だから、ヨーガは「死の準備」と言われ、心と体を整え、意識を高め、しっかりした意志と知性と品格を磨いていくのです。
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