心がない
ヨーガは、段階的に心を訓練していきます。
ところが現代のヨーガはテクニックに先走り、心を教えてもらうことがないようです。
心を教える前にテクニックを教えてはならないのです。
どんな道においても「達人」がいます。
達人とそうでない人の違いはなんでしょう?
何十年その道を歩んでいても、本質にぶれない心を持っていることです。
この心がないと、慣れてきた時に自己流の解釈に走り、基本から離れ我流になっていきます。
なぜ人間は、ある時期になると自然とヨーガに導かれるようになるのかといえば、テクニックを得るためだけではありません。
修行は、精神的な成長をもたらすものです。
自分を律し、ヨーガを修行することで精神的な深みが人格にあらわれ、人間性が豊かになるのです。
人間は、心を成熟させ精神性を高めていくことが人間の真の成長です。
それを望むのは人として自然なことです。
ですが、我流でヨーガを修行しても精神性が高まることはありません。
そこには、本質的なことを忠実に守るという規則がないからです。
規則がない修行の道は、動物と同じです。
自由きままな遊行になってしまうでしょう。
このことからも、修行にはある一定の規則が課せられていることがわかってくると思います。
我慢は修行のはじめの一歩です。
自分が我慢すると思うと、誰でも逃げたくなります。
そうではなく、我慢を心に与えるのです。
自己中心的な心は、多少の我慢を与えることで他人に気づかいできる大人の心になります。
なんでも「可哀そう」とみないことです。
可哀そうと判断する前に、なぜこういう状況にあるのかよく洞察します。
必要でその過程を通過している場合もあるからです。
修行は、あえて自分から自分の心に苦しい状況を課すことで心を成長させていく道です。
日々是精進。
我慢していますか?
すぐに投げ出していませんか?