自然に訪れた変化
アナスタシアは言います。
「人々の崇拝を呼び起こした教えを知っている」
ウラジーミルはきき返します。「全部?」
「ええ、全部」
「じゃあヴェーダ(インド最古の文献)を完全に訳すことはできるかい?」
「できる。でも何のためにそんなことに時間を費やすの?」
「だって、君は人類に古代の教えを知らせたいと思わないのかい?君が話してくれたら、俺は本に書くよ」
「それでどうなるの?最終的に人類に何が起こるとあなたは考えるの?」
「どうって、人類が賢くなるだろう?」
「ウラジーミル、まさにこれが闇の勢力の罠なの。彼らはありとあらゆる教えによって、人間が大事なことを見えないようにしようと欲しているのだから。
真理の一部を、単に思考のための教義として描き出させて、大事なことを一生懸命に遠ざけているの」
〜共同の創造 アナスタシア・リンギングシダー4より〜
アナスタシアの様な女性の存在が、現代のヨガ、またはスピリチュアルブームに、新たな視点を投げかけることになると思います。
昨秋、インドに行った時、私の中で何かがプチンと切れました。
私のパスポートは、インドの税関スタンプだらけだったけれど。
それは、はっきりと、衝撃的に起きたわけではありません。
でも、何かが音を立てて、進路のレールを変えた、シフトしたような気がしています。
言葉にできないのですが。
あれだけヨガに生きたかつての場所を、冷静にそして客観的に、傍観者のようにとらえている私がいました。
リシケシには、以前にも増して外国人が増え、日本人も大勢います。
団体でティーチャートレーニングに参加しにやってきた御一行も、よく見かけました。
スピリチュアルの品格は、いったいどこ?
ポーズに取り憑かれてしまった人々。
人間が、なぜそんなにも肉体に固執するの?
私たちは、精神が肉体に宿った魂であることを、今この地上で、魂の品格を肉体に引き出しながら自分で思い出せるのに⁉︎
品格、優雅さ、グレイスはスピリチュアルの恩恵です。
女性はグレイスフルを肉体に、心に、人格の一部に表現できるようになること=スピリチュアル。
そう考えます。
資格と魂に宿った美意識や叡智は、何の関係もないもの。
なぜヨガを教えるために、何も知らない人に多額のお金を払わせる必要があるの?
その金額と引き換えに、果たして本物になれた?
なぜ私たちと同じ一人の人間を、そんなにも皆でとりまくの?
目を覚まして。
このヨガビジネスから。
日本人はとくに、インド人にとっては良いビジネスパートナーだそう。
この意味が、おわかりになるでしょうか。
私が35〜6歳の時、今から10年以上前になるかしら。
LAでは、パワーヨガが最高潮でした。
私はそのブームの中に、実際に足を運んで見に行きました。
その時、LAでは知らない人がいないほどの、89歳のパイオニア的ヨーガの先生と、ちょっとしたご縁がありました。
彼女のマンションへ会いに行った時、パイオニア的存在の方だもん、何を言われるんだろう⁈と私は緊張していました。
そんな私の緊張をクラッシュするように、彼女は私をぎゅっとハグし、私の両腕を抱きしめたまま、開口一言、
「この世界には、あなたのようなヨーガの先生が必要なのよ」
「え?だって、私…ヨーガの資格持ってません」
ヨーガの資格ブームの中、私はそれ無しで仕事をしていたことから、少し引け目を感じていました。
するとそのパイオニア先生は、こう言いました。
「みんな、資格、資格って騒いでるけど、本当はね
ヨーガに資格なんてまったくいらないのよ」
19歳からヨーガを教え続けてきた彼女の指導魂が宿った瞳を、私は見逃しませんでした。
ヨーガは、ましてや指導力は、とうてい資格で証明できる次元のものではないのに。
若いチヤホヤされたヨガインストラクターより、彼女の方がうんと本当のヨーガの先生だと私は思いました。
その頃、LAのサンタモニカ辺りは、ヨガスタジオだらけでした。
いわゆるカリスマインストラクターのレッスンは、ヨガマットを持った人々が、スタジオの外まで並んで参加する光景を頻繁に目にしました。
当時のLAのヨガブームを、不思議な現象として、私は傍観者のように見ていました。
懐かしい思い出です。
アナスタシアは言います。
「誰も。すべての宇宙の叡智は、一人一人の人間の魂に、永遠に宿っている。魂が創造されたその瞬間から。賢人たちはしばしば勿体ぶっているだけで、自分の都合のいいように、大切なことから魂を遠ざけているの」