少年院のヨーガ道その1

心を静めて内声を聴きなさい




朝日新聞に、「いま子どもたちは」という連載が8回にわたり掲載されました。

少年院で生活する20歳のBさんの取材記事です。

記事の中のBさんは、回を重ねる度に変わっていきました。

社会不適応になってしまった少年が更生されていく様子から、ヨーガの心の統制を感じさせられました。




私は以前、死刑囚の方が書いた水墨画を見たことがあります。

一見、モノクロの写真と見間違えたほど、繊細に描写されていました。

驚いたことは、絵の上手さよりも絵の中にある静寂です。

自分の死を待つ人間が、こんなにも落ち着いた心になれるのか。

静かな水墨画に、人間が抱く死への恐怖はなかったのです。



心の中には様々な思いや恐怖の念もあったのではないかと勝手な想像が浮かびました。


「生きて私の神性に気づく」

犯罪を犯してしまいましたが、その後をどう在るかによって、彼はもしかしたらこの一件を機に、仏の道を歩まれて逝ったのかもしれません・・・。

水墨画に投影された心は、本心であったのでしょう。

人間の心は、打撃を通してこそ本性が顕れる。




意識は、いつ何をきっかけに目覚めるかはわかりません。

少年院で暮らすBさんも、その一人であったような気がしています。

以下、記事中の文章を抜粋させて頂きます。


逮捕前夜、Bさんは避けを飲んでいたカラオケ店を抜け出して、仲間と繁華街に繰り出した。たまたま通りがかった中年男性を襲い、けがを負わせた。

現金を奪った。店に支払うお金を持ち合わせていなかった。そんなことを理由に。

「1回ぐらいなら大丈夫だと思った。善悪の判断がつかなかった」。


Bさんは、中学卒業後、建設現場で働きながら通信制高校で学んでいた。まじめに仕事をしていたが、「遊びたい!」という気持ちも抑えられない。

友人や後輩ら数十人と立ち上げたイベントサークルでの活動が、どんどん楽しくなった。一方、仕事場からは足が遠のいていた。

「今日は気分違くね?」
「飲むから、明日は行かなくてよくね?」
そんな言い訳をしては仕事をさぼり、週に2回しか働かないこともあった。



多摩少年院の一室で、暴走を止められなかった自分を振り返るBさん。背筋を伸ばし、両手を太ももの上に置いて椅子に座る姿は、不良少年だったとは思えない。

多摩少年院には、日常生活の約束事が書かれた「生活のしおり」がある。

「気をつけの姿勢は両足のかかとを付け、つま先は60度に開く。手は4本の指をそろえ、親指を軽く内側に曲げて付ける」などと細かい。

その暮らしの中で、Bさんは自分をコントロールする方法を見つけた。





この記事は、他人事に読めません。

心の構造が具体的に書かれているからです。

内容は異なれど、こうした心の働きは誰もが日々体験しているはずです。

自分の中にふとわく想念。

正しい判断がつかなくなる時。

誰にでもあると思います。




Bさんの意識に浮かび上がってきた想念は、彼を犯罪に至らせてしまいました。

「なぜこんなことを考えるのだろう?」と思うような、自分以外のささやきがあります。



Bさんが、善悪の判断がつかなくなってしまうほど理性を失ってしまったのは、意識の中枢が自分の中になかったことが考えられます。

想念にコントロールされやすい低次の意識だったのです。


ヨーガは、低次の意識を高次へ実践によって高めていきます。

想念に操られるのではなく、こちらがコントロールするように訓練します。

心のマスターになるということです。




多摩少年院には、日常の約束事が書かれた「生活のしおり」があります。

これは、ヨーガでいえば道徳的規律のヤマとニヤマの修行です。

ヨーガ修行者は、まずこのヤマとニヤマを生活の中で実践しながら、瞑想に向けて心を浄化していきます。



「生活のしおり」では、気を付けの姿勢までこと細かく指示されています。

これは、ヨーガにすればアーサナです。

気を付けの姿勢に細かい指示があるように、本来のアーサナの手法にもあります。

このような肉体のコントロールは、心の指示なしには統制できません。

この訓練を通して、心に肉体が従うようにします。

ただし、心が清らかな動機を持たなければ、いくら肉体が従っても悪事の想念を実行していくばかりです。

ですから、精神修行には道徳的規律が必ずあるのです。

心を先に浄化させるためです。

清められた心がないまま、心と肉体を結びつけしまっては、心の想念に肉体が自動的に稼働してしまいます。

すると人間は、常に心と肉体の働きに振り回されていることになります。



実は、多くの方がこの状態で生きています。

ふとわいてきた想念と自分を同一視してしまうからです。

この同一視を引き離す訓練が、心を観察することです。

観察することによって、傍から見ている傍観者になるのです。

傍観者に徹することができれば、想念と自分を同一視することが薄らいできます

この同一視が続くうちは、頭の声を聞くことをやめる手立ては何もありません。

ヨーガの心の訓練を自分に課さないうちは、ほとんどの人が同一視のままです。

これが苦悩の原因であると、ヨーガスートラでは言われています。




肉体は、訓練しないかぎりだらしなくる一方です。

すると、この多摩少年院の「生活のしおり」にある体の使い方は、前述したようにヨーガの心のコントロールの手法と同じです。

Bさんは、ここでヨーガの心の科学の体系を実践しているのだと思える記事でした。

これが、最後の8回目の記事によって証明されます。


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